第44回来日公演
「十二夜」
"Twelfth Night"
あらすじ
イリリアの公爵オーシーノは、伯爵令嬢オリヴィアに思いを寄せている。 しかし、兄を亡くした悲しみに暮れるオリヴィアはそんなオーシーノの求愛をひたすら拒み続けていた。
そんなある日のこと、嵐の過ぎ去ったばかりのイリリアの海岸に、うら若き女性・ヴィオラが打ち上げられる。乗っていた船が難破し、同じ船に乗っていた瓜二つの双子の兄・セバスチャンも行方知れずとなり途方に暮れるヴィオラ。しかし、船長のはからいで男装しセザーリオと名乗り、やがてオーシーノ公爵に仕えることとなる。
セザーリオがすっかり気に入ってしまった侯爵は、頑ななオリヴィアの心を自分に向かせるよう彼女のもとへセザーリオを遣わす。じつはオーシーノを密かに愛していたヴィオラにとって、これはあまりにも辛い役目だが男の姿をしている以上、自らの思いを告げることもできない。仕方なくオリヴィアのもとへ向かい、美しい詩とともに侯爵の熱い心のうちを伝える。
たちまちセザーリオに心を奪われてしまうオリヴィア。
なんとオリヴィアは、オーシーノではなく、セザーリオに恋してしまったのだ。
かくしてオーシーノはオリヴィアを、オリヴィアはセザーリオを、そしてセザーリオ(ヴィオラ)はオーシーノに思いを寄せるという、完全な恋の三角関係に。
さて、オリヴィアの屋敷には、叔父のトゥビーと、遊び仲間のアンドルーが居候しており、道化フェステとともに毎日飲めや歌えの馬鹿騒ぎをしていた。
そんな彼等を日頃目の敵にしている生真面目な執事のマルヴォーリオ。
ある夜、トゥビーたちが、侍女のマライアも交えて、いい気分で羽目をはずしていると突然マルヴォーリオが現れ、厳しい叱責のことばを残し、去ってゆく。
楽しい時間をぶち壊しにされ腹の虫が治まらないトゥビー達はなんとか仕返しをしてやろうと息巻く。
そんな中、マライアが素晴らしい復讐の妙案を思いつく。
オリヴィアに愛を告白されるものの、冷たく返すしかないセザーリオ。そんな二人のやり取りを見ていたアンドルーは実は兼ねてからオリヴィアに好意を抱いていた。
そのことを知るトゥビーはそんな彼をけしかけ、アンドルーはセザーリオに決闘を申し込む。
さてそんな中、ヴァイオラと生き別れになったかと思われた兄のセバスチャンは、船長のアントーニオに救われ、イリリアにやって来ていた。
街を見物中、ひょんなきっかけで出会ったオリヴィアにたちまち心を奪われ、なんと結婚の約束をかわしてしまうセバスチャンだが…。
それぞれに交差するロマンス、決闘の行方は?そして、生き別れとなっていた兄妹の運命は…?
インターナショナル・シアター
カンパニー・ロンドン
(ITCL)
ロンドンを拠点に、世界で公演ツアーを行い、独特な演出で世界中の観客を魅了しているインターナショナル・シアター・カンパニー・ロンドン(以下ITCL)。今年、5月に44回目の来日公演が実現します。
今回は、シェイクスピア作品の中でも人気・知名度の高い「十二夜」を原語上演。長年に渡る海外での英国文学作品普及に追力した功績に対して、英国王室より勲章を受賞したポール・ステッピングが脚本と演出を務めます。
日本で行われる数少ない原語公演(英語)。日本にいながら、一流の海外演劇を鑑賞できる貴重な機会。原語上演だからこそ味わえる、シェイクスピアの持つ言葉のリズムや雰囲気をご堪能ください。
演出家 Paul Stebbings による「十二夜」作品解説
本作品は、シェイクスピアによる喜劇の最高傑作です。シェイクスピア自身、本作品後、事実上、純粋な喜劇を書くことをやめたことを認めています。シェイクスピアは、喜劇の形式を極め、喜劇というのは、人間の条件を忠実に、悲劇的に反映した混沌であるとの論理的な結論に達したのです。本作品は、古典的喜劇は言うまでもなく、シェイクスピアの喜劇の7つのルールでさえも破っています。つまり、中心的な登場人物は、一人ではなく、多くの登場人物が重複しているのです。純粋なハッピーエンディングではありません。中心人物同士は結婚し結ばれまずが、ヴァイオラが女性として登場することはなく、結婚式の場面もありません。何よりも、フィナーレは、マルヴォリオの復讐への叫びと、フェステの長い悲しみの歌で終わります。歌、ましては深い物悲しい歌で終わる悲劇は十二夜くらいのものでしょう。
この魅力的な作品の中心にあるものは何でしょう?それは愛です。シェイクスピアは、愛という非常に強力な感情の、大変個人的な、ほとんど革命的な見解を提示しています。つまり、愛は、私達の内にあり、愛情の対象を模索しており、その対象は、性別、社会的地位、年齢に関わらず、誰でもありえるということです。愛は満たされるべきものであり、オリビアが示すとおり、『伝染病のような』ものなのです。愛の力により人生を切り開くためには、危険にも関わらず、前向きであるべきとシェイクスピアは訴えています。オリヴィア、セバスチャン、アントニオ、ヴァイオラは、愛情の対象に会うとすぐに恋に落ちます。オーシーノは、彼の愛情の対象は、オリヴィアへの執着にも関わらず、直ぐに移り変わることに気が付きます。トビー卿でさえも、社会的地位が下である給仕であるマリアと結婚します。マルヴォリオは例外です。彼はある種の愛に夢中になりますが、観客は、その腐敗した愛を通して、シェイクスピアにより、愛に地位は関係なく、人物の問題であり、そして、愛とは、隠しごとがなく、与えるものであるとの忠告を突きつけられます。マルヴォリオは、素晴らしい、喜劇的存在であり、虚栄で、自己中心的なピューリタンです。彼自身が最も忌み嫌う様々な表現や情熱に陥ってしまいます。多くの十二夜の演出において、マルヴォリオは、よぼよぼで、横柄な執事、まぬけで、危険性がない人物として描かれています。しかし、シェイクスピアは、彼を作品で少なくとも3回、ピューリタンと呼んでいます。ピューリタンは、劇や笑い、まさにシェイクスピアが推し進めているものの、致死的な敵であります。ピューリタンは、シェイクスピアの死後、原理主義宗教のもと、何十年も劇場を閉鎖し、音楽、ダンス、5月柱を禁止しています。シェイクスピアは、素晴らしい技術で、時に厳しく、ピューリタンの取り壊しに着手したのです。マルヴォリオが、ただのよぼよぼ執事であるとしたら、残酷すぎます。そして、シェイクスピアが観客に突きつけている見解である、『輝かしい腐敗における愛の倒錯と人生の否定』に立ち向かおうとする際、いじめられているマルヴォリオに同情する気持ちは混乱を生むでしょう。結ばれたカップルのハッピーエンディングを演出したい願いにより軽視されがちな、この素晴らしい作品の最後の2、3行に焦点を当てることが有効です。オリヴィアとオーシーノは、マルヴォリオの登場と、復讐の願いに深く傷つきます。これによりそれぞれの結婚式を延期し、いじめられたマルヴォリオと和解するためにフェステを送ります。なぜこの出来事は軽視されるのでしょうか?なぜフェステの最後の歌は、マルヴォリオに対するものではないのでしょうか?なぜシェイクスピアの問いかけ、『マルヴォリオは変わるのか?または復讐のために叫ぶだけなのか?』は、未解決なのでしょうか?
『楽の調べが恋の糧になるものなら、そのまま奏し続けるがよい』
これは十二夜の最も有名な行であり、音楽は愛を生み、愛は、誰も抵抗できないくらいの大きな力に成長し、しかし、腐敗の可能性もあることを表現しています。私達は、人間であり、そして世の中には女性と男性がいて、そして女性の中にも男性的な部分があり、またその逆もある人間性を享受すべきなのです。このことを否定することは、私達自身の性質を否定することであります。これは、シェイクスピアが、この最大の喜劇に埋め込んだ糧であり、私達に課題を叩き付けています。